善と悪について・・・・また、宗教について
最近知った、雲黒齋さん。
ある時、守護霊と通信できるようになり、霊界のこと、現世の事等をおしえてもらうようになったとのこと。
今、ブログを読んでいるのですが、「これは真理だな」と思うことが書かれていたので記録しておこうと思いました。
善と悪、宗教について、私も同感だでした。
宗教の教義は、それ自体が絶対というわけではなく生きるためのヒントなんだとおもいます。
逆に、細かく決めすぎると、自分で判断することがなくなり、一部の解釈でしかない教義を全部に当てはめようとすると無理が出て、それに合わない人を殺したりするようになるんだと思います。
逆に、神道は教義じみたものが皆無です。
人は、大直日(創造神とでもいうものか)の分け御霊であって、人は本来よきものである、、、それが生きていくうちに曇って穢れてしまうので、日々祓い、直日に戻ることが大事である。という中心の考えしかない。
この考え方に沿って自分でいろんなパターにに当てはめてみてその場で柔軟に思考することが大事なんじゃなかろうか、、そう思う。
『「善と悪」の正体は、この世で「魂の進化」を進める為にある“一つのツール”だ。だから、本当は、善と悪は別々のモノではない。必ず1セットで存在している。そして、そこにあるのは、魂を成長させようとしている「出来事(シーソー)」だけ。「善」も「悪」も、人間(個人)が勝手に作り上げている「感情」の一部にすぎない。そして、その個人の「心」のあり方(思考エネルギー)が「出来事」の質を変える。』
『(恐怖、不安、罪悪感など)ネガティブなエネルギーで創造された出来事は、ネガティブな(ネガティブと感じられる)現実を生み出す。』
『逆に、(楽しさ、笑い、幸福感など)ポジティブなエネルギーで創造された出来事は、ポジティブな(ポジティブと感じられる)現実を作り出す。』
(-ω-;) 「原因と結果の法則ってやつですね。」
( ´ー`) 『そう。「出来事」は「発端(原因)」ではない。「思い(心のあり方)」が作り上げた「結果」なんだよ。物事には必ず順序がある。「原因」の無い「結果」はあり得ない。』
『では、何故神はこのようなシステム(仕組み)を作ったのか?』
『「悪」は、「神〈真実の愛〉」を学び取るためにある方便なんだよ。(ある「何か」の存在を証明するためには、その「何か」の比較対照となるモノが必要になる。)』
『「悪」は、「脅し」ではなく「警告」なんだ。「おまえの取っている行動は、本来学ぶべき、〈真実の愛〉からそれているぞ!」という「サイン」を送っている。「そっちに進んでも〈本当の幸せ〉はないぞ!」と教えてくれている。』
『神は、日々の心のあり方、行動の「答え合わせ」が簡単に行えるよう、「原因と結果の法則」を用意した。自分の行った「思考・行動」の結果が目の前に現れることを通じて、「〈自分〉で判断し、〈自分〉の体験で、学べ。」と言っているのだ。』
『なのに人間は、「出来事」の「原因」を他人のせいにしたがっている。自分に責任は無いと言っている。悪いのは「私」ではなく「おまえ」だと責任を押しつけているのだ。今の世の中は「評論家」ばかりが増え、「プレイヤー」が激減している。』
『聖書にも、お経にも、コーランにも、人生の〈答え〉はない。そこにあるのは「ヒント」でしかないんだよ。それを無理矢理〈答え〉にしようとするから、本来の「教えの本質」を「消化・吸収」出来ないんだ。』
『そろそろ「他人」に「責任転嫁」するのをやめなさい。何故、善悪の判断を他人や宗教にゆだねるのだ。』
『「私たちの信じる〈教え〉こそが真実です。この教えに従わないとあなたは天国へはいけません。地獄に堕ちます。」だと? ふざけるな。こんな「脅し」を言うやつに言ってやりたいね。』
『「おまえの信じる神は、そんなに懐の狭い、愛の欠如した神なのか?」と。』
悪は、「神(愛)」から離れたことへの警告、、、とは、なんて上手い言い方なんだろうと感心しました!確かに!!
そして、「責任転嫁」というものは愚の骨頂なんだろうな。
世の中は「原因と結果」という法則でなりたっているのだから、何か起こったことは自分の行動等の結果でしかないんだもの。